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サイトの更新について

 投稿者:畠山義綱  投稿日:2017年12月 3日(日)20時43分35秒
  このたび、「能登畠山氏七尾の歴史」「加賀冨樫氏野々市の歴史」を更新しました。

「六郎光明の屋形」及び「加賀一向一揆」サイトの管理者である林光明様ご逝去につき、ご遺族のご了承を頂きまして、わたくし畠山義綱がサイトのデータを継承することにしました。

つきましては、本日付けで
「能登畠山氏七尾の歴史」内に「旧『六郎光明の屋形』跡地」のコンテンツを新規Upし、そちらに「リアル!戦国時代」のコンテンツを移管しました。

また、「加賀冨樫氏野々市の歴史」は「加賀一向一揆」サイトと合併することにし、「加賀冨樫氏野々市の歴史with加賀一向一揆」と名前を変更いたしました。現在は、「『官知論』現代語訳」など3つのコンテンツの移管にとどまっておりますが、その他のコンテンツも随時移管していきます。

今後とも両サイトをよろしくお願い申し上げます。

http://nanao.sakura.ne.jp/

 
 

畠山氏側では

 投稿者:畠山義綱  投稿日:2017年11月16日(木)22時36分38秒
  この古文書は、東北から馬を購入しいた。と解釈されています。馬廻衆などの新設などで軍事基板の強化を目指していたか?とされていました。馬が到着というところでそう読むこともできます。が、東北からわざわざ馬?最上側の意見も正しいような気もしますし、この文書だけで上洛?と言う気もします。  

やはりご存知でしたか。

 投稿者:武藤舜秀  投稿日:2017年11月14日(火)05時58分2秒
  畠山氏側と最上氏側と解釈が違うというのも気になるところですね。  

武藤様

 投稿者:畠山義綱  投稿日:2017年11月10日(金)06時10分12秒
  カキコありがとうございます。
すみません怒濤の忙しさで余裕がなくなっておりました。
拝見いたしましたが、この古文書は知っておりましたが、このような解釈ができるとは…。
畠山側と最上側でこの解釈が違うようなので、それをもうちょっとすりあわせしていきたいと思います。
 

最上義光の上洛

 投稿者:武藤舜秀  投稿日:2017年11月 9日(木)21時27分13秒
  こんばんは、武藤です。
お元気に過ごされておられますか?

最近、日本史史料研究会研究選書13「最上義光」粟野俊之著
を購入して読んでおりました所、
最上義守・義光親子が上洛する際に、幕府が畠山義綱に上洛に協力せよとする内容の
文章が書かれておりました。

以前にメールにて送ったのですが、気づかれておられないようでしたのでこちらにもカキコ(もう死語ですね)します
 

「義慶奮戦記」全面改訂の要旨

 投稿者:畠山義綱  投稿日:2017年 9月 3日(日)17時56分2秒
編集済
   この度、「義慶奮戦記-義綱奮戦記番外編-」を大幅というよりほぼ全面改訂いたしました。その要旨は、今回新設した「義慶奮戦記」のあとがきにあるのですが、一応改訂の要旨としてこの掲示板に、そのあとがきの内容を書きたいと思います。

 『義綱奮戦記』は2000(平成12)年に完成してネットに公開しました。その完成直後から「今度は息子の畠山義慶の生涯を書きたい」と思って勢いで『義慶奮戦記』を書き始めました。しかし、晩年の畠山家ではかなり古文書が残っている畠山義綱に対し、ほとんど古文書がない義慶。書き始めてすぐにこれは難しいと筆が止まってしまいました。しかし、途中になってしまってはと、なんとかストーリーを完成させましたが、納得のいくものではありませんでした。完成後、徐々に歴史の勉強を深めて行くうちに、最初に完成した『義綱奮戦記』をどんどん改訂していきました。歴史小説やNHK大河ドラマを見ていると、どんどん発想が沸いてきてきます。すばらしい作品を参考にすることが創作意欲をかき立てるのだとわかりました。

 そんな中、私は義慶奮戦記の可能性に気づきました。最初こそ義綱と義慶は親子なのに直接の接点が薄く、結局書くことが難しいと思っていましたが、逆に直接の接点が薄いからこそ書く視点が増えるということに気づきました。つまり、義綱の能登奪回計画を行っている最中に義綱は義綱方として御舘館に在陣しています。その一方で義慶(次郎)は七尾城方として敵方として描かれています。つまり、一方の視点を描いて、その舞台裏をもう一方の視点で書けるということです。義慶(次郎)は敵方でありながら、実は義綱方に駆けつけようとし、それを七尾城方が察知してなんとかさせないようにする点。御舘館に対する義綱方の退却戦略と、攻略した後の住民の対応。こうして物語を描くと『義慶奮戦記』が独立した一作品としてではなく、まさに『義綱奮戦記番外編』としての機能を持ち得たのです。それに気づいて、本日『義慶奮戦記』の大幅な改訂を行いました。これを以て私は『義慶奮戦記-義綱奮戦記番外編-』の一応の完成を見たのではないかと思って「あとがき」に書きました。
 ちなみにこの番外編の物語に頻繁に出てくる「公私意に任せずに政を御成敗する」と言う言葉。これは「六角氏式目」の一説です。能登畠山家と関係が深い近江六角氏において1567(永禄10)年に制定されたもので有力な被官と大名との間に順守すべき事項を起請するという形式をもって大名専制政治を防ぐ効果があったと言います。この分国法は1563年(永禄6)年に起こった六角氏が重臣を暗殺して怒った観音寺騒動や1566(永禄9)年の六角対浅井長政との戦いに惨敗したということにより家臣が大名の専制支配を見限ったという経緯で作られている。これは、能登畠山氏の状況も似ている。そこでこの「六角氏式目」の一説を取り、能登畠山氏の内部崩壊を描いたのです。

 今まで作品に納得がいかなかったものを、十年以上経って納得がいく作品を完成させることができる。これがネットの良い点だと思います。今回の大幅改訂を以て『義慶奮戦記-義綱奮戦記番外編-』は一応の完成を見た訳ですが、この気づきをもし他の場面でも生かせたら。もう一度義綱と義慶のニアミスがあったら…とアイディアが生まれたら、また改訂することもあるかもしれません。そんな可能性を秘めて、一応の完成を見たあとがきとさせて頂きます。
 

「義綱奮戦記」7話改訂要旨

 投稿者:畠山義綱  投稿日:2017年 9月 3日(日)11時02分51秒
  本日、「義綱奮戦記」の第7話を改訂しました。

御舘館集落の住民と義綱との触れ合いです。「おんな城主直虎」の小野政次の処刑に影響され、ちょっと史実に合わせて裏の舞台設定を作ってみました。直虎は国人小領主のため、住民との触れ合いがキャプチャーされていますので、参考になりました。よかったら小説第7話もご覧ください
 

返信です。

 投稿者:畠山義綱  投稿日:2017年 8月16日(水)22時31分21秒
  >巣鴨介様
残暑お見合い申し上げます。
といいつつすごく涼しいですね。本日は関東でも10月並みの気温だったそうです。
私はまた『加能史料』という本が刊行されまして、加賀能登の活字化された古文書を楽しみにみております。1565年から1572年までの史料ですが、冨樫関連はありませんでした。
やはりこの時期の冨樫は古文書の制約が厳しいです。駿河の冨樫の話はでてくるのですが、
なぜなのか気になります。
歴史もゆるやかに参りましょう。

>武藤舜秀様
朝倉氏遺跡資料館いいですね~。また行きたいな~と思いながら時々サイトをみて展示会をチェックしています。みたい企画展もあるのですが、展示図録などの販売も大きな展示だけに限られていますので…。うらやましい(笑)
 

朝倉氏遺跡資料館の企画展示

 投稿者:武藤舜秀  投稿日:2017年 8月16日(水)21時00分57秒
  一乗谷の朝倉氏遺跡資料館にて「朝倉家臣団~重臣鳥居氏と堀江氏~」が企画展で開催されております。今日行ってきたのですが、金津の溝江公・富樫公一族之墓並辞世之詩歌碑拓が展示されていました。
今回は小さな企画展なので図録はないのですが、なかなか中身の濃い内容でした。

http://asakura-museum.pref.fukui.lg.jp/030_event/detail.php?id=182

http://asakura-museum.pref.fukui.lg.jp/030_event/detail.php?id=182

 

残暑・・・

 投稿者:巣鴨介  投稿日:2017年 8月14日(月)23時49分34秒
  残暑お見舞い申し上げます。

どうか健康に注意され、まだ続く暑い日々を乗り切られますよう
お祈り申し上げます。

熱もだいぶ落ち着き、買い漁りも無くなりました(笑)
 

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